「ビッグになりたい」気持ちの収縮

「ビッグになりたい」という野心は素晴らしいと思う。ビッグになる=社会に大きなインパクトを残す=多くの人を自分の力で幸せにする、こんな構図だと思ってる。人を喜ばすことは素晴らしいことだから、ビッグになる夢はみんなどんどん叶えばいいと思う(大量殺人で有名になる、みたいな社会に不を与える的なヤバイ思想は排して言うてます)。

ビッグになる夢を持つ人は、相対的に若者に多い。社会に対しての認知が少なく、自分の“分相応”を知らない。エネルギーに溢れている。若いって素晴らしい。

僕もご他聞に漏れずそうでした。昔は日本を代表する起業家になりたかったし、自伝を出版できるような大人になりたかった。政治家に興味を持っていた時期もあった。著名人やインフルエンサーなどのわかりやすいビッグな大人の本やブログを読み漁って、話を直接聞きに行ったりもしていた。暇だったんだろうな、と思う。

それに対して今。全然その気持ちはない。気持ちがどんどん収縮していった。周りの多くもそう、学生時代は起業すると息巻いていた友人たちのほとんどは今やすっかりサラリーマン。飲み屋で仕事の愚痴を言う大人になりたくないと一緒に言っていた友人と今飲むとだいたいは話題は仕事の愚痴になる(ちなみに人の愚痴ってその人の嫌なところとかドロドロした人間の部分が垣間見れるからものすごく楽しい)。

でもそんな中、ビッグになるんだろうなと思う人はいる。これは先輩同期後輩に限らず。数人いる。もちろんそこに具体的な根拠はない。ビッグになるための要素がそもそもわかってないから、根拠は見出せない。でも直感的に、こいつすげえな、絶対すごくなると思える友人は数人、たしかにいる。そして多分当たると思ってる。

昔の僕なら、おそらく彼らに嫉妬していたと思う。でも今は、一切ない。これがいいことなのか悪いことなのかはわからない。恐らくここまで書いたことは、「人は大志を抱かなければいけない」「夢に突き進む大人であるべき」という価値観がベースにある人には軽蔑されると思う。

今は多様性の時代だからなるべく「〜しないといけない」「〜すべき」は減ってきているのに。まあそれは置いといて。

「ビッグになる」というのは相対的な表現だ。比べる相手がいない時点で、自分が大きいか小さいかはわからない。

相対の中で生きるのってしんどい。精神的に消耗する。僕の「ビッグになりたい気持ち」は、この相対の闘いから降りたというのが一番の理由だと思う。しかしだ。こっからが今日書きたかったこと。その闘いを降りてから、自己研鑽に使う時間は増え、できることも増えていった。いわゆる「自己成長」への意欲が増大した。

理由を考えた時に、齢25歳にして、同じような中高大での学校生活を過ごした仲間たちの生き方がどんどん多様を極めている。先ほど書いた通り、ビッグになりつつある友人もいて、そいつらは飲んでて楽しい。人の仕事の話、新しく始めたこと、残した成果の話、成長ストーリーは聞いていて大概楽しい。少年ジャンプを読む感覚なのかな。

そういった連中は「面白いなこいつ」って思わない限り、一緒に飲んでくれない。仕事を頑張ってるから忙しいし。僕はそういう連中にも刺激も与えたい。そしてお金を気にせず、5軒くらいハシゴしたい。太りたくないからRIZAPも行ってみたい。あと借金も完済して気持ちを晴らしたい。

目を向けていた「社会」という漠然と広い範囲から、より身近なところに欲求の対象が移った。ビッグにはならなくていいから、どうか好きな人たちと好きな時に好きな場所で飲める今の感じを一生維持させてほしい。家族を持っても、親の介護が必要になっても、自分の人生の縛りをなるべく緩くキープしていたい。となると、いわゆるビッグな人と同じくらいの力量が必要になってくる。

身近で現実的な欲求は「ビッグになる」という漠然とした夢よりも動力になる。